パートナー考

partner

様々な分野で活躍する人たちが考える、男女の距離感

第3話 「夫婦とは」

両親は大変な時代を駆け抜け、素晴らしいパートナーとの出会いがあり、価値ある一生を送りました。私も、既に今は亡き夫と、仕事を通して喜びも悲しみも共にしてきた日々を昨日の事の様に思い出します。夫との出会いは長崎のある職場でした。趣味を共にし、よく議論し、いつの間にか其処で価値観も共にするようになったのです。長崎をこよなく愛した人で、大好きな長崎を更に良くしたいと二人で熱く語ったものです。同じ目的を持ち、同じ方向を向いて走っている時は働いても働いても疲れを感じないくらいでした。忙しい家庭生活の中でも、二人の子供は順調に巣立ち、仕事が全ての生活でした。夫が求める事は私が求める事で、私が求める事は夫も求める事だったと確信しています。こんな幸せなカップルはいないでしょう。
最近は結婚をしない人が多いようです。多くの問題はあると思いますが、良きパートナーと生活をし、苦労を共にし、幸せを分かち合う事こそ夫婦でしか味わう事が出来ないものではないのでしょうか。家庭も仕事も共同作業です。強い絆で家庭を築くことが、世の中の平和、世界の平和を築くことに繋がり、人間の究極の仕事ではないかと思うのです。

  • 投稿者:堀田
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第2話 「今も残り伝わる愛」

私の両親は二人とも既に他界しています。明治生まれの人で、母は明治。大正、昭和、平成と約一世紀を生き抜いた人でした。
終戦後父の故郷である長崎に、私を連れて満州より引揚げて来る。私を育てるために、若い時に習得した社交ダンスを教えることで生活の基盤を作っていたのです。
父と母との出会いは、母が社交ダンスを東京で教えていたときの事。父は長崎より上京し、母の教えるダンスを習いに行くのでした。母の話によると熱いラブコールの末、結婚に至ったのだそうです。当時、時代は昭和恐慌と言われ金融不安、就職難と若い二人の生活は現代では想像もつかないほど厳しいものだったと聞いております。
戦後の混乱した時代も母は身に付けていたダンスが生活を守ったと自慢げでした。昭和恐慌、戦後の混乱、と戦前戦後と波乱に満ちた時代を苦労を共にした二人は積極的に一歩一歩と地盤を固めていったのでした。
二人の出逢いはダンスを通して、生涯ダンスと共に価値観を同じくしたのですね。仕事を共にし、深く理解し合い、ある時は若い人たちの為の出会いの場を作り、カップルを作り、長崎に良い家庭人を作る為に貢献してきました。
昭和の厳しい時から、戦後の平和な時を駆け抜けてきたのも二人の価値観がダンスという舞台がもたらしたものではなかったか。今は亡き二人の絆の強さを思いだして心温めるのです。

  • 投稿者:管理人
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第1話 「出会いの場」

母と私が戦後満州から長崎へ帰ってきたのは昭和21年夏の事でした。幼い(7歳)子を育てるために母は当時進駐軍のお相手をするダンサー(当時はそう呼んでいました)と、身につけていたソシアルダンスを教えて生計を立てていたのでした。
時代も変わり父も帰還し、両親はダンスを大学生やサラリーマンにも広めていき、戦後の唯一の社交場として長崎県に広めていきました。二人は昭和初期ダンスで出会って結婚したのです。若者達は両親が経営するタイガーダンススタジオで出会い、やがては結婚し、子供が生まれ…。長崎のカップルの多くの方々から良くお宅にお世話になりましたと言われたものです。自分は何故か就職した職場で出会った人と結婚するのでした。母がもし生きていたら106歳ですが、今でもダンスで出会ったカップルが母の昔話をしてくれます。先生は厳しかった。マナーが悪かったり、歩く姿勢が悪いとお尻をピシッとたたかれていましたと。
今は若い方達の出会いの場は何処なのでしょうね?時代が自由になり過ぎて返って不便になっているのではないのでしょうか。結婚に限らず良い人との出会いは人生にとって最大の宝と言えます。

  • 投稿者:管理人
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