シンパシー美術館

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山崎 好峰

No.11 生涯、この書道とともに生きる

山崎 好峰 Yamasaki Kouhou

長崎市生まれ。
昭和41年から書道塾を開き、幼児・小学生・中学生・高校生・一般を対象に、市内の数箇所で指導し、現在に至る。昭和54年に滑石公民館創立と同時に、最初の書道講座講師を数年間務めた。また、西公民館でも書道講座講師を数年間務めた。書道(文字教育)の普及と書道文化向上発展のため、後進の指導に現在も努めている。

また、県・市・会社・企業団体・一般市民などから筆耕を依頼され担当している。筆耕の内容:顕彰状・表彰状・感謝状・賞状・卒業証書・修了証書・保育証書・各種の案内状・年賀状・表札・看板など。平成25年に、市政功労表彰を受賞。
資格・役職:長崎県展審査会員・長崎県書道展審査会員・長崎市展審査会員・長崎市書作家協会常任理事(会長・副会長を務めた)。


山崎 好峰氏の作品

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書道教室にて

小学生の時に、兄が書道を習っていたのがきっかけで、私も小学4年から習い始めました。その当時は、野球が大好きでプロ野球選手に憧れ夢見ていました。。中学に入って、野球部に入部。でも、体力が追いつかず断念。
ずっと、文字を書くことが好きでしたから。その時かな。もう一度書道を習ってみたいと思ったのは。もし、やるんだったら、将来、これで頑張ってみようと思ったんです。高校卒業後、会社勤めをしながら、別の先生に師事、長崎・関西の書道団体で続けて行くことにしました。
「将来一生にわたってできる職業はないのだろうか?」と考えた時、大好きな書道しかない。30歳の時に、よし、会社を辞めようと一大決心。その当時、結婚して子どもがいましたから、妻にも両親にも反対されましたよ。あたりまえですよね。

書歴もなく、不安が多いなか、未知の世界へ飛び込む。冒険でしたね。、当時、年間に数多くの展覧会へ出品。画仙紙(作品を書く紙)などは中国・台湾ものが多く、良い紙は値段が高く、なかなか手に入らない。時々、入荷した時にまとめて買わないといけない。また、関西へ勉強に行く旅費・宿泊費・研修費など、とにかく金銭面でも大変でした。でも、この積み重ねがあって、今、現在があるのかな。
「書」は、1回きりの書き直しがきかない造形芸術。まめこそ書技の極意なり、筆を手に持つと筆は生きもの・魔物・書は手のダンスですよ。書作の時は、墨に七色あり、墨色美を出すために墨色にも気を配っています。書く時は孤独で夢中になって無心になります。独自性のある作品を作っていかなければなりませんからね。師匠の物真似ではいけませんから。ですから、師匠とは違った道を歩んでいくことが、自分に必要と思ったのです。異端児と言われてもいい。一人で頑張ってみる。何事にも挑戦する。
それが私の生き様ですね。今からいろんな書を研究し勉強していくこと。苦しんで字を書くのではなく、楽しみながら書いていきたいですね。


Q.1 創作するときの気持ちは・・・?

さりげない言葉など、日常生活の状況を文字で表し、考えながら書いて作品にしていきます。書いている時は、夢中になりますね。一瞬わからなくなるぐらいに没頭します。題材(詩文)が決まって、こんな感じで書いてみようとか頭の中にイメージで書くんです。例えば「龍馬」という字の「龍」は、くんちの龍踊りをイメージしながら、「馬」は広野をかけめぐる気持ちで、最後の点々は蹄をイメージしています。本当、単純なんですよ。自分の字をつくっていくんです。その文字や漢字がどういうものなのかな…と意味を考えながら。「笑」でしたら、笑ったように書いてみようかな…と。文字の中にできる空間が美しく感じるように、考えれば、考えるほど書けなくなることもありますね。書く場所をかえたり、また机で書いてみたり。皆が寝静まった夜中や、朝早くに起きて書くことが多いですね。


Q.2 目指す生き方って何ですか?

生涯、この書道と思っていますから、僕は今のままでいいと思うんですよ。自分の字をひたすら書いていくこと。
真の書を求め、自分の字を作り上げたいですね。しかし、健康が第一ですから。命の続く限り立派な人間像を追及し、更に修養を重ね努力していきたい。
好きな言葉は「黙々とこの道一筋が生きがいである」


Q.3 山﨑好峰さんにとって、結婚とは・・・?

妻がいなかったら、僕はダメだったかもしれません。僕の仕事を理解してくれて、手伝ってくれる縁の下の力持ちです。実際に、墨をすってくれたり、紙をはってくれたり、何よりも心の支えになってくれた妻がいたからこそ、今の自分があると思います。

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小野 大輔

No.10 ふれあいの中から生まれる

小野 大輔 Ono Daisuke

1985年、長崎県雲仙市吾妻町に生まれる
諫早東高等学校卒、崇城大学、崇城大学院で洋画専攻。
高校教員をしながら、作品制作に取り組む。2011年、日展にて「チョーク絵のある静物」が特選受賞。
西海市立崎戸中学校講師時代、黒板に白のチョークだけで卒業生の笑顔を描き、インターネットで話題に。
自分にとって、初めての卒業生に感謝の気持ちを何か形にして残したいと思ったのが、卒業式の前の日の晩。たまたま、黒板が空いている教室があったので、チョークで描いてみようかと思ったのがきっかけ。小野先生は、一晩かけて、卒業生13名の笑顔を描き上げました。


小野 大輔氏の作品

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スポーツが好きで、高校時代は野球をしていた小野先生。油絵を教える美術の江口武志先生との出会いがあり、野球部から美術部へ転部し活動を開始します。3年生の時に描いた作品が高校美術展で受賞し、県展にも入選。芸術の道を志す大きなきっかけとなりました。


Q.1 作品を創作するときの気持ちは・・・?

描きはじめるまでのモチーフの組合わせを考えたり、1枚1枚の制作が新鮮で楽しみがあります。完成したら、どんな風になるんだろう?とワクワクします。試行錯誤するのも絵の楽しみかなと思います。モチーフにひとめ惚れすることもあって、大学生の時、惚れ込んで石膏を購入したことがあります。


Q.2 作品紹介

「 チョーク絵のある静物 」日展にて特選受賞
チョーク絵の人物を背景に、静物を配置した作品が新たな作風として、評価されたのが嬉しいです。長時間、絵を描いていたら不思議な感覚になることがあって、見るもの全て、絵の具でどう表現するかのそれぞれの質感が自然と見えてくるんです。


Q.3 目指す生き方って何ですか?

人間関係を大切にしたいですね。大学院の時は一人でもくもくと描いていましたが、勤務しはじめて、生徒たちや先生方のふれあいの中から生まれる絵があるんだと初めて感じました。生徒と一緒に成長していきたいですね。作品を制作するということを、生活の一部にできたらいいなと考えています。


Q.4 小野大輔さんにとって、結婚とは・・・?

私の家族はとても仲が良いのでそういう風になれたら・・・と思っています。絵画とは、絵で表現する日記みたいなもので、そのときの気分や感情で、大きく変化することがあります。結婚を機に新たな作風が生まれるのではないかと思っています。自分のパートナーになった相手を、モデルとしてずっと描き続けることができたら幸せだろうなと思います。

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植木 寛子

No.9 自分らしく生きること

植木 寛子 Ueki Hiroko

東京生まれ。
島原鉄道創業者、植木元太郎(初代島原市長)の子孫にあたります。
1999年女子美術短期大学卒業後、渡仏し、2000年ルーマニアにて制作活動を開始。 2001年より、イタリア、ムラーノ島にて以後、ヴェネチアを拠点に制作を行う。2002年、日本選抜美術展にて最年少での奨励賞、イタリアの国宝ピノ・シニョレット氏と共同制作。2003年、朝日現代クラフト展入選、2008年日本工芸美術展入選ほか多数。2007年には、雲仙市、島原市、南島原市誕生記念「日本・イタリアガラスの靴の展覧会」、雲仙ビードロ美術館、島原城、雲仙災害記念館にて巡回展。2010年、長崎県美術館にて個展、雲仙ビードロ美術館開館10周年記念展にて作品展示。国内のみならず、パリでの個展開催など、グローバルに活躍している。


植木 寛子氏の作品

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「日本でガラス作品を制作している人は、全て一人で作っていることが多いですね。私の場合は、作ること自体に興味があるのではなく、ガラスという素材を使って、どのような芸術作品を作っていこうかな、ということに興味があるんです。」
大学では油絵を専攻していた植木さん。「自分の作品をガラスで作ってみたい」「自分のイメージどおりに作品を仕上げてくれるのは、ヴェネチアの職人しかいない」とヴェネチアでの制作を決めたとのこと。その強い想いが、作品からも伝わってきます。


Q.1 作品を創作するときの気持ちは・・・?

遊び心を大切にしています。ガラスはたくさんの色を使うことができるので、色とりどりの作品を観た時に、楽しい気持ちになってもらいたいと思っています。色は、調合師の方と発色を確認しながら進めていきます。私も、ひとつひとつ楽しみながら、その気持ちを大切にして作っていますね。


Q.2 長崎にゆかりのある作品。

「龍馬のブーツ」
私自身の代表作がガラスの靴なので、女性のヒールのある靴のテーマで作品を作ってきました。その中で、ちょうど龍馬の流れもあり、「龍馬のブーツ」に挑戦してみようと、長崎で思いたったんです。龍馬自身が、日本で初めてブーツを履いたということもあって、そこからヒントを得てイメージして作りました。


男性的なブーツという形は、初めて作りましたね。特に女性的なものを意識して作っているわけではないんです。今まで、ガラスの作家は男性の方が多く、工房が危険な現場ということもあり、女性が入るということは許されていなかったのがひとつあります。新しい時代だからこそ、女性にしか表現できないものもあると思いますし、色をたくさん使えるガラスは、女性の感性が表現しやすいのかなとも思いますね。私の場合、モチーフは身近なものが多く、ファッションなどの影響を受けて作品をつくることが多いんですよ。


Q.3 目指す生き方って何ですか?

自分らしく生きることが一番だと思います。20代の頃は、がむしゃらに色んなことに挑戦して、自分が何なのか、よくわからないままやってきた部分はあります。30代になって、自分の中でも気持ちが落ち着き、自分らしくいられることが一番大切なことなんだと感じました。
心地いい空間の中で、好きな仕事を楽しくやっていけるということが、私にとって幸せなんです。そういう面では、心の影響も作品に表れるので、毎年、作品の表情が変わるねと言われたりします。


Q.4 植木寛子さんにとって、結婚とは・・・?

結婚はしなきゃいけないのかな…と思っていた部分もありますが、人生のパートナーは結婚が全てとは思っていません。自分らしく生きるのが一番大事ですね。パートナーは、結婚に限らず出会えることだと思うので、それを大切にしたいと思っています。
自分の両親を見ていると、結婚して幸せな家庭を築いていくということは、とても素敵なことだなぁと感じますね。

 

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山本 早苗

No.8 透き通った白い影をあつめて

山本早苗 Yamamoto Sanae

長崎県生まれ。
東京造形大学絵画専攻卒業、同大学版画研究生修了
自然をテーマにした叙情あふれる豊かな色彩の一連の作品を発表。水・森・月・花など日本の伝統的な風物を現代的な感覚で捉え、抽象及び具象的手法で表現する。
1984年~日本版画協会展出品、現在準会員、日本美術家連盟会員、 1997年文化庁芸術インターンシップ研修員。1992年より版画を通じた国際交流活動に携わる。
アートと社会との関わりをテーマに国内はもとより、アメリカ、カナダ、ロシア、ヨーロッパ各国、アジア各国での国際交流展、企画展に多数参加し、アーティストのネットワークづくりと国際間の相互理解を深める活動を展開している。


山本 早苗氏の作品

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美術大学の絵画科に進んだ山本さん。大学3年生の時、版画を専攻。それ以来、大きな作品から小さな作品まで数多くの版画の制作を続けています。アトリエには、大きな銅板プレスの機械をはじめ、これまでの作品や画材が整然と並んでいます。木版画、銅版画、リトグラフ、コラグラフなど 一点の作品に様々な版種・技法を併用して複雑なテクスチュアを作り上げます。版は全て自分で作り、手すき和紙に自分で摺ります。版ごとに色を変え、多様な版を摺り重ねて作品をつくっていきます。一つの作品を制作するのに、大きいものでは30~40回の版を重ねて仕上げていくそうで、体力と根気が必要とのこと。


Q.1 作品を創作するときの気持ちは・・・?

10代の頃から絵を描いているのですが、小さい頃から感じたものを覚えていて、それを記憶の引き出しに入れていくんです。私の頭の中にはカメラがあって、情景を克明に覚えることができるんですよ。日常の繰り返しのなかでふとした瞬間、その引き出しから何かが溢れてきて絵になる。何かが私のなかで震えるんです。音叉がふれるみたいにね。


どういう時に湧き上がってくるのかは、自分でもわからないのですが、風が吹いてきた時に、ふいに描きたくなったり、偶然の力が必要になってきます。悲しくなった時にも描きたくなりますね。描きたくない時は、庭の手入れをしながら溢れてくるまで、ひたすらじっと待つんです。 なかなか難しいのですが、空気の震えのようなものを描きたいと思っています。光と影の儚さ、とらえようと思ってもとらえられないものに、すごく惹かれることが多いですね。


Q.2 なぜ「長崎」という場所なのですか。

長崎という場所は独特な土地がらで独特な文化的背景を持っています。 私は飯盛町(現、諫早市)生まれ、18歳まで育ちました。物心ついたころから飯盛町 と長崎の街中を行き来し、高校時代はどっぷりと「長崎」にひたりながらも、東京と長崎を行き来して過ごしました。 長崎の自然や文化の中で自我や感性を培い、それを外から眺める視線も 培いました。大げさにいえば「長崎」が私の原点です。18歳で上京し15年ほど暮らし たあと子どもを産み育て、制作していく場所として私の「原点」である長崎を選びここに戻りました。


Q.3 長崎にゆかりのある作品。

「雨シリーズ」
長崎で生まれたこともあり、ほとんど長崎にゆかりのある題材で作品を制作しています。 雲仙の山を歩いていた時に雨にあい、雨の写真を撮ろうと思ったんです。でも、うまく撮ることができずに、雨の絵を描くことにしたんですよ。夏の終わりの雨上りに咲いたウコンの花…とても感動したことを覚えています。


Q.4 目指す生き方って何ですか?

多くのものは望まずに、家族が健康であたり前に暮らせればそれでいいと思っています。花や野菜を育てながら、自然の移り変わりを肌で感じて穏やかに生きる。日曜の朝は鳥の声を聞きながら、庭のテーブルでお茶をいただく。そういった、日々の暮しの傍らに音楽や本があれば嬉しいですね。


Q.5 山本早苗さんにとって、結婚とは・・・?

憧れですね。人は一人では生きられないと思うんです。結婚というものを、あまり仰々しく考えすぎないこと。人は年をとっていけば、最後は助け合っていかなければならないですし、家族は大切だなと感じています。

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馬場 一郎

No.7 “自然”が全ての原点

馬場 一郎 Baba Ichirou

1930年台湾生まれ。
佐賀大学特設美術科専攻科修了。卒業後、高校の美術教師となる。
長崎県展知事賞 他2回受賞、1975年 二科展特選、県展審査員などを経て二科会会員(審査員)、2004年日米友好50周年記念二科選抜展
アジア美術家連盟会員・日本美術家連盟会員。長崎で唯一の二科展会員。2001年には、二科会の会員賞を受賞。


馬場 一郎氏の作品

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馬場先生のアトリエは、茂木の山奥にあります。隠れ家のようなアトリエには、画材や作品がたくさん置いてあり、油絵の懐かしいにおいでいっぱいです。野山の風景やベニスの街並が描かれた作品を見ていると、心が洗われるような、穏やかな気持ちになります。


Q.1 作品を創作するときの気持ちは・・・?

僕は、頭の中では絵をつくらず、対象を見て、そこからヒントを見つけ出して描いていくんですよ。一番大事なのは、いかに真っ白な子供の心、目を持っているかということ。自分が心を開いて、素直な気持ちでいると、自然を感じることができるんです。目にみえないもの、掴めないものに神経を動かしながら、大きくものを見ることが大切だと思っています。調子がいい時と悪い時とでは、絵の仕上がりも変わってきますね。


Q.2 なぜ「長崎」という場所なのですか。

中学生の時、修学旅行で長崎に来たことがあったんです。その時の宿の主人が優しくて、「また、長崎に来てください」と小さい私たちに言ってくれた、その気持ちが嬉しかった。東山手、南山手の風景や、町の人の雰囲気を見て、子供ながらに心に響いたんです。その時には、長崎に住もうと決めていましたね。
友達と久留米から長崎まで夜行列車でスケッチに行きましたよ。東山手、南山手、唐人屋敷がお気に入りの場所でした。


Q.3 馬場一郎さんが目指す生き方って何ですか?

時代の変化、流れをいつも見ておかなければなりませんね。何事にも、“自然”が全ての原点なんです。僕は自然によりかかって生きていますよ。自然はお金では買えない、人間にはつくれないもの。自然との共存を、いつも考えています。僕は昔、体が弱かったんです。そんな時、母が僕に少しでも元気になるようにと、自然にたくさん触れさせて、同時に母の愛情を感じていたのかもしれません。


Q.4 馬場一郎さんにとって、結婚とは・・・?

一度、結婚してみないとわからないものですね。人間、結婚したら変わるんですよ。いい意味でも悪い意味でも、どんどん変わるんです。それをお互い突き詰めていったら、深くなるんです。結婚すると心の余裕、ゆとりができ、更に子供がいれば、より深い考えを持てるようになっていきます。僕は36才で結婚しました。人間的にも成長したように感じますね。

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山口 正美

No.6 いつまでもチャレンジャー

山口 正美 Yamaguchi Masami

1948年、長崎県東彼杵郡波佐見町生まれ。
波佐見焼400年の歴史と共に歩んだ山口正右衛門窯の当主として、波佐見青白磁の復興に努める。
1977年、 長崎工芸展知事賞受賞
1982年・1983年・1986年、 日展入選
1986年、 三笠宮殿下へ「白磁彫牡丹文花瓶」献上
1986年、 長崎県陶磁器展知事賞受賞
1990年、 国際陶芸展金賞受賞 、1991年、 伝統工芸士に認定
白磁陰刻を得意とし、2006年全国技能士連合会マイスターに認定、2010年には、卓越した技能者(現代の名工)に選ばれた。


山口 正美氏の作品

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波佐見焼400年の歴史と共に歩んだ正右衛門窯。
小学生のころから父を手伝い、20歳からの3年間、陸上自衛隊の精鋭部隊、第1空挺団に所属。23歳で父の跡を継ぎ、当主として伝統の青白磁一筋に打ち込んできました。2009年、薪を使用した昔ながらの窯を自作。波佐見青白磁の復興に努める。



Q.1 作品を創作するときの気持ちは・・・?

邪念をはらって、作品に集中し魂を投入しなければならないですから、基本的な反復訓練が大切になってきます。基本に戻ることで、技術を高めながら新しいものを見つけたり、その感性を作品に表現します。造形は、自然からヒントをもらうことが多いんです。作品には、大胆さが必要ですが、見えないところの繊細さが一番大切だと思っています。


Q.2 なぜ「長崎」という場所なのですか。

僕は、長崎の波佐見町生まれで「長崎」に対してこだわりを持っています。有田も古伊万里も、産地は波佐見。工芸美術の焼き物は、波佐見が発信しているんだという感覚を持ってアピールしていかなければと思います。歴史ある大きな古窯も30くらい発掘されないまま横たわっているんです。これらの窯をまず発掘、発表していきながら、波佐見の400年以上の歴史とともに世界へアピールしていきたいですね。


Q.3 長崎にゆかりのある作品。

実は賞をとった、これは!と思う作品は、全て手元にないんです。作品を手放す時に、これよりもっといいものをつくるぞと思って、更に上を目指しています。白磁は、波佐見の歴史ある焼き物。私の作品は着色をせず、自然の色を出しています。この色を出すのには、15年かかりましたね。
それと、昔ながらの手法の薪で焚いて焼き上げようと思い、山に窯を作りました。薪の炎はやわらかく、味が出ます。作品は宝石。形、釉薬、窯の焚き、三拍子そろってはじめて作品になるんです。


Q.4 山口正美さんが目指す生き方って何ですか?

自分の仕事から決して逃げないことです。美術工芸としての完成度を高めたいですね。世界で通用するものをつくりたい。40歳手前の時、作品を風呂敷に包んでニューヨークのソーホーに行ったことがあります。ソーホーは、世界の芸術家が集まる町。世界の反応はどうだろうと、作品を見せてまわったり、画廊に訪ねていったりしましたよ。その時に、「あなたの作品は、とても洗練されていて素晴らしい。メトロポリタン美術館で展覧会ができる作品だ」と評価をもらった時は、とても嬉しかったですね。


自信が持てたと同時に、改めて、感性、造形力の完成度を高めるには、基礎が大事だと気付きました。ものづくりというのは、自分が好きな物をつくることも、もちろんですが、日本、そして世界中の産地もどんなレベルで、どのような作品を作っているのか把握しておかなければなりません。そういう勉強もしながら、作品づくりに挑戦していく。死ぬまでチャレンジャーだと思っていますよ。まずは、いいものをつくること。終わりはありませんね。


Q.5 山口正美さんにとって、結婚とは・・・?

一生の大切な伴侶ですから、気持ちは一心同体でありたいですね。お互い、行きつくところは一緒。人間は自分勝手なところもありますから、最終的にはお互い理解し合うことが必要なのかもしれません。気持ちを抑えたり、羽をのばしたり…お互いに影響しあいながら、バランスを上手にとれたらいいですね。


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長谷川 武雄

No.5 存在意味のある生き方を

長谷川 武雄 Hasegawa Takeo

1949年、長崎県生まれ。
1973年、武蔵野美術短期大学 通信教育部デザイン科卒業
1974年、クラフトハウス茶碗屋設立、1983年、クラフトショップみつはな開店。日本クラフト賞、九州クラフトデザイン展福岡通産局長賞受賞。
1986年、長谷川陶磁器工房設立
(財)大阪デザインセンター、グッドデザイン商品選定
1999年、ギャラリーandカフェからこ野オープン


長谷川 武雄氏の作品

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“クラフトマン・デザイナー” デザインができる職人という立場で、ものをつくっている長谷川さん。「生活の中で、楽しく使える美しいものを提供したいですね。伝統的な技術・文化を活かしてものを形にする職人と、目的のために、一番いい方法で形にしていくデザイナー。その両方のことを理解して作っていけば、よりいいものができるのではないか」と笑顔で話します。単に、形を表現するだけではなく、社会や使い手のことも考えてつくられた心のこもった作品を、ぜひ手に取って感じてほしいと思います。


Q.1 作品を創作するときの気持ちは・・・?

使う人にとって、便利で楽しく、幸せを感じてくれるかどうか、というのをいつも考えています。ユニバーサルデザインの仕事を長くやっているので、障害を持った人でも楽に使えるように心がけています。形でただ表現するのではなく使ってもらう人を設定して、自分の作品を置いた時に輝くことをイメージしながらデザインをしていきます。日本伝統の美意識もきちんと伝えながら、今の時代にあったものを作りたいですね。ここ数年は「クールジャパン」といわれ、日本は海外でも高く評価されているんです。私達の業界も同じなんですよ。僕の作品も2割ぐらいはヨーロッパに輸出しています。


Q.2 なぜ「長崎」という場所なのですか。

実は、長崎から出たことがないんです。生まれは島原市有家町で、34歳までずっとそこにいました。生まれ育ったふるさとに愛着を持っているし、ものを作る環境がとても大事だと思っています。長崎は、一番気持ちよく仕事ができる場所なんですよ。


Q.3 長崎にゆかりのある作品。

透光性磁器 “あかり”
この透光性磁器は、従来の磁器の3倍の光を透します。長崎県が独自に開発した素材なんですよ。これは、照明ではなくて“あかり”です。あかりの文化は、日本では江戸時代から先駆けて文化としてあったんです。中に入れているLEDは、日本が開発した独自の技術。この作品は、100%メイド イン ジャパンの技術だと言えますね。長崎県は、焼き物のデザインに関してはトップレベルなんです。


Q.4 長谷川武雄さんが目指す生き方って何ですか?

どんなかたちであっても、この社会において自分が機能している、役に立っている存在でありたいですね。デザインは、社会のために何かをやる、というのが最終目的。存在意味のある生き方をしたいと思っています。


Q.5 長谷川武雄さんにとって、結婚とは・・・?

生まれも育ってきた環境も全く違う他人同士が一緒になるから、思い通りにいかないことも多いけれど、共通の価値観を持った大切なパートナーだと思います。どちらかに依存するのではなく、支え合い、助け合いながらお互いに補完する。当然、恋愛感情や好き嫌いもありますが、ある意味でそれは一時的なもの。最初とは違う愛情や信頼関係となって、お互いに必要とし合わなければならないものだと思います。

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岩﨑 緋布 (岸代)

No.4 人形とともに生きて

岩﨑 緋布 Iwasaki Hifu

1940年、長崎県大瀬戸町生まれ。
1963年、美容院開業、1987年、(財)人形美術協会入門、
2000年、(財)人形美術協会 師範特級取得。
時代のある古い布に魅せられ人形作りを始める。 2002年には、長崎県大瀬戸町国際交流会理事に就任し、大瀬戸町の姉妹都市であるオーストラリア・ボウエン市に国際交流の一環として、多くの人形を寄贈。2006年には、 書道・七嶋鴎舟氏(玄鴎書道会会長)、日本画・城輝行氏(長崎県美術協会副会長・青羊会主催)とともに長崎市にて三人展開催するなど、長崎を拠点に活動中。


岩﨑 緋布氏の作品

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23歳にして、美容室を開業。古典衣装のショーに必要な衣装を調達するため、大阪へ行った際、出会った人形に衝撃を受けたことが人形の世界に入るきっかけとなりました。それからは、仕事をしながら、休みを利用して寝台車で大阪へ通い、23年間の勉強の日々。岩崎先生の人形に対する情熱が伝わってきます。 人形は正面からだけでなく、全ての側面から見える違う表情を楽しんでほしいですね。


Q.1 作品を創作するときの気持ちは・・・?

人形の顔も一体一体手書き、髪の毛も一本ずつ手作業で結っていきます。ひとつひとつテーマが違うので、それぞれの作品の気持ちになりきって作っています。江戸の人形をつくるときは、時代考証を一番に考えますね。時代をさかのぼる作品になると、着物に使いたい布がなかなか見つからないんです。ですから、「この布いいな」と思えるものに出会った時、何に使うというわけでもなく、買っておくようにしています。前日も、10年前に買っていた布が、最近作っていた人形のイメージにぴったりだったんですよ。

Q.2 なぜ「長崎」という場所なのですか。

もともとの生まれが大瀬戸なんです。23歳の時に、大瀬戸で美容院を開業したこともあり、ずっと長崎です。やはり、地元への思いがあったからでしょうね。


Q.3 長崎にゆかりのある作品。

「蝶々夫人」
私が所属している人形美術協会は、もともと北白川妃殿下が総裁をつとめていた由緒ある学校なんです。皇室にも、協会から人形づくりの講師として通っている人もいたんですよ。私は特級師範を取得して、研究室に所属、「長崎県 岩﨑」として国民文化祭へ出展することになりました。国民文化祭は、皇室の方も見にいらっしゃる大きな祭典。その時に、長崎らしい作品を!と思ったんです。


Q.4 岩﨑緋布さんが目指す生き方って何ですか?

10年という短期間で、師範になれたのは現役の美容師をしながら、着付や髪結を培っていたせいかもしれません。生涯、人形と共に生きて行こうと決めています。全て人形にかけてきたので、今があるんです。人形教室も、人と人とのコミュニケーションが楽しい。一人でやっていくのもいいけど、皆で和気あいあいとやっていきたいですね。


Q.5 岩﨑緋布さんにとって、結婚とは・・・?

環境が違う人同士の出会いなので、ぶつかったりもするけれど、一緒に過ごすことで学ぶことが多いと思います。子どもができて、いろんな意味で自分が育てられたり・・・。子どもたちから学ぶこともたくさんあるんです。途中で終わることがあったとしても、「悪かった・・・」と思うのではなくて、いい人生経験をさせてもらったと思えれば、結婚っていいなと思いますよ。

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島田 克臣

No.3 きっかけは全て“好き”だから

島田 克臣 Shimada Katsuomi

1947年、長崎県長崎市生まれ。1966年、長崎工業高等学校工芸デザイン科卒業後、長崎浜屋百貨店宣伝部入社。
大分小国の小黒三郎(有名組木デザイナー)ミュージアムで、木の玩具と出逢い、組木細工創作を始める。組木絵は、組木とカラーインクを組み合わせた、島田氏のオリジナルファインアート。その他、ナイフ、フィギュア等も創作。フィギュアでは、1990年、タミヤ人形改造コンテストで銀賞受賞。1988年、 1992年、 1998年、同コンテストにて銅賞受賞。2010年、浜屋百貨店退職後は、作品作りに専念。


島田 克臣氏の作品

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島田さんのアトリエは、西小島の自宅一階にあります。アトリエには、大きな機械や作品などが所狭しと並んでいます。小さなバーカウンターまであって、まるで隠れ家のような場所です。「きっかけは全て“好き”だから。創作は、自分自身が楽しみ、そして周りも楽しませることなんです。」と笑顔で話してくださいました。一つ一つの作品からは、島田さんの優しい気持ちが伝わってきます。


Q.1 作品を創作するときの気持ちは・・・?

作品をどういう風に表現するのか、出来上がった時に面白いと言ってもらえるものを作りたいと常に意識していますね。組木などは、パズル的なデザインの面白さがあります。図面をひいて考えるのが、すごく楽しいんです。デザインが固まったら、完成までは早いですよ。みんなに喜んでもらえるような作品をつくりたいといつも考えています。

Q.2 「長崎」という場所にこだわっていらっしゃいますよね。

生まれた時からずっと、3代にわたってこの場所に住んでいるんですよ。長崎が好きだから、ずっと居ようと昔から思っていました。生まれ育った町ですからね。


Q.3 長崎にゆかりのある作品。

「ハタ坊(昇り人形)」
小黒三郎(組木デザイナー)氏の人形に触発されて面白い人形を作りたいなと思いました。長崎といえば“ハタあげ”。ハタあげをする子供をモチーフに作成しました。とても人気がある作品です。


Q.4 島田克臣さんが目指す生き方って何ですか?

人を、子供たちを喜ばせることかな。作品を通してたくさんの笑顔を作っていきたいですね。補導委員として、愛の声掛け運動をしているので、子供たちと接する機会は多いんです。子供たちの笑顔を見ると嬉しくなりますね。

Q.5 島田克臣さんにとって、結婚とは。

結婚とは、愛を育む環境じゃないかな。
子供をつくって、次世代へ繋げていくこと。世間体や、義務的なものを考える人もいますが、そういうものではないですよね。 私は結婚して、2010年で37年になりますが、言葉では言い表せない、深いものだと思います。

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